歴史と書の息づく空間 大門碑林公園 (後編)

大門碑林公園は、山梨県西八代郡市川三郷町市川大門にある公園です。

大門碑林公園

大門碑林公園は、市川三郷町は、和紙生産が盛んな町であり、書道用紙の生産でも知られています。この地域の特色を反映するように、町内にある大門碑林公園では、中国陝西省の西安碑林や山東省の曲阜碑林から名碑を集め、その歴史的な魅力を紹介しています。これらの碑は、特に書道や拓本の愛好家にとって非常に貴重なものです。

大門碑林公園

大門碑林公園の奥へ進むと、階段がさらに続きます。階段を登り終えると、さらに多くの碑が並ぶエリアがあります。

大門碑林公園

このエリアでは、周囲の自然とともに、碑の数々が調和し、静かな空間の中で歴史を感じることができます。

大門碑林公園

大門碑林公園の上の方まで登ると、ここには8つの碑が並んでいます。高台からは公園全体を見渡せる素晴らしい景色が広がり、さらに碑を鑑賞しながらその歴史的価値を深く感じることができます。

大門碑林公園 [8] 玄秘塔碑 (841年) [9] 大唐宗聖観記碑 (626年)

右から、[8] 玄秘塔碑 [9] 大唐宗聖観記碑と並びます。

玄秘塔碑(げんぴとうひ)は、唐代(841年)に建立された碑で、唐の名書家・柳公権(りょうこうけん、778年~865年)の代表作として知られています。「大達法師玄秘塔碑 (だいだつほうしげんぴとうひ)」とも呼ばれ、大達法師・端甫(770年~836年)の功績を称え、その埋骨塔の由来を記したものです。柳公権は、同じく唐代の大書家・顔真卿(がんしけい、709年~785年)と並び称され、「顔柳二家」として後世に大きな影響を与えました。顔真卿の書法を受け継ぎつつも、彼の「顔法」とは異なり、より細く骨ばった力強い書風を確立しました。そのため、柳公権の書は古来より書学の入門用として広く学ばれてきました。玄秘塔碑は、そんな柳公権の楷書の特徴がよく表れた作品であり、中国書道史において極めて重要な存在です。筆の抑揚や線の強弱が絶妙に調和し、端正でありながらも力強さを感じさせるその書風は、書を学ぶ者にとっての理想的な手本とされてきました。

大唐宗聖観記碑 (だいとうそうせいかんきひ)は、唐の貞観年間 (626年)に建立された碑で、唐代を代表する書家・欧陽詢(おうようじゅん、557年~641年)による書です。彼の楷書作品の中でも特に独特な特徴を持ち、楷書と隷書が混在した珍しい書風となっています。欧陽詢の楷書は、端正で引き締まった線質が特徴であり、後世の書家に多大な影響を与えました。しかし、この碑では一般的な楷書とは異なり、隷書の要素が加わることで、柔らかさと力強さが同居した独自の美しさを生み出しています。日本との関わりも深く、「朝日新聞」の題字は、この碑の文字を集めて作られたと言われています。このことからも、大唐宗聖観記碑が書道史において特別な位置を占めることが分かります。

大門碑林公園 [10] 孔子廟堂碑 唐 (626年)

孔子廟堂碑 (こうしびょうどうひ)は、唐の楷書の代表作の一つであり、初唐の名書家・虞世南(ぐせいなん、558年~638年) の筆によるものです。彼は、欧陽詢 (おうようじゅん)、褚遂良(ちょすいりょう)とともに「初唐の三大家」に数えられる名書家で、その端正かつ洗練された筆致は、後世の書道に大きな影響を与えました。この碑は、唐の太宗 (598年~649年) が長安にある孔子廟の改築を記念して建立したものです。孔子の教えを称え、儒学の重要性を強調する内容が刻まれており、政治と儒学が深く結びついていた唐代の文化を反映しています。しかし、原碑は唐末期に失われてしまい、その後、二カ所で碑が再建されました。そのため、現存する碑は後世の復元ですが、虞世南の洗練された書風を今に伝える貴重な資料となっています。

大門碑林公園 [11] 雁塔聖教序碑 [13] 集王聖教序碑 [12] 雁塔聖教記碑

右から、[11] 雁塔聖教序碑 [13] 集王聖教序碑 [12] 雁塔聖教記碑と並びます。

中央にそびえる三基の碑は、玄奘三蔵 (602年~664年) の功績を称えたものです。玄奘は、唐代の高僧であり、インドへ渡って仏典を収集・翻訳し、仏教の発展に大きく貢献しました。その偉業を後世に伝えるために、これらの碑が建てられました。左右に配置された碑は、それぞれ「序記(じょき)」「教記(きょうき)」と呼ばれ、内容的に対をなしています。「序記」は玄奘の生涯や西域への旅路を記し、「教記」は彼が持ち帰った経典の意義や仏教界への影響について述べています。

大門碑林公園 [11] 雁塔聖教序碑 唐 (653年)

雁塔聖教序碑 (がんとうしょうぎょうじょひ)は、唐代の名書家・褚遂良(ちょすいりょう、596年~658年)の筆による楷書の名碑です。彼は欧陽詢(おうようじゅん)、虞世南(ぐせいなん)と並び「初唐の三大家」に数えられ、その端正かつ優雅な筆致は、後世の書道に多大な影響を与えました。この碑は、唐の高宗(628年~683年)の勅命により建立されました。内容は、三蔵法師として知られる玄奘(げんじょう、602年~664年)がインドから持ち帰った仏典の翻訳事業を記念するもので、仏教の発展に貢献した玄奘の偉業を称えています。「序」は、太宗の勅命によって僧・彦悰(げんそう)が執筆し、碑文の書は褚遂良が担当しました。碑は西安の大雁塔に設置されており、「雁塔」の名の由来ともなっています。碑文は楷書の完成形に近く、洗練された筆遣いと堂々たる構成が特徴的です。特に、褚遂良の筆致は王羲之の流麗な書風を受け継ぎながらも、独自の厳格な品格を備えており、後世の楷書の手本とされました。

大門碑林公園 [12] 雁塔聖教記碑 唐 (653年)

雁塔聖教記碑 (がんとうしょうぎょうきひ)は、唐代の高僧・玄奘(げんじょう、602年~664年)の偉業を称えるために建立された碑です。雁塔聖教序碑 (がんとうしょうぎょうじょひ)と対をなす存在であり、西安の大雁塔に設置されています。この碑は、玄奘がインドから持ち帰った仏典の翻訳事業を記録したもので、仏教の教えを広める目的で建立されました。碑文は、唐の高宗(628年~683年)の勅命により作成され、当時の仏教界や皇帝の保護のもと、玄奘の翻訳事業がいかに重要なものであったかを記しています。碑の書は、褚遂良(ちょすいりょう、596年~658年)の筆によるものとされています。褚遂良は初唐の三大家の一人であり、彼の書は端正かつ洗練され、楷書の完成形に近いものとして後世に多大な影響を与えました。雁塔聖教記碑の文字は、流麗でありながらも品格があり、厳格な造形美を持つ楷書として評価されています。

大門碑林公園 [13] 集王聖教序碑 唐 (672年)

集王聖教序碑 (しゅうおうしょうぎょうじょひ)は、唐代の高僧・玄奘(げんじょう、602年~664年)がインドから持ち帰った経典の翻訳事業を記念し、仏教の教えを広めるために建立された碑です。その名の通り、中国書道史上最も著名な書家・王羲之(おうぎし、303年~361年)の書を集めて作られたことで知られています。この碑の文章は、唐の太宗(598年~649年)の勅命により、僧・彦悰 (げんそう)が執筆しました。その碑文を刻む際、王羲之の書を集めて構成するという手法が取られ、当時現存していた王羲之の筆跡を用いて、一つの碑文として仕上げられました。そのため、「集王」という名が冠されています。碑は、現在も西安の大雁塔に現存し、王羲之の流麗な書風を今に伝えています。碑文は楷書を基調としながらも、行書や草書の要素を含み、独特の韻律と美しさを備えています。王羲之の書を直接見ることができない現代においても、この碑を通じて彼の筆致を学ぶことができる貴重な存在です。

大門碑林公園 [14] 皇甫誕碑 唐 (641年)

皇甫誕碑 (こうほたんひ)は、唐代の書家・欧陽詢 (おうようじゅん、557年~641年) の楷書による碑であり、初唐楷書の第一の手本とされてきました。原碑は現在も西安碑林に現存していますが、長年の風化や損傷により、割れた状態となっています。 正式名称は「隋柱国左光録大夫宏議明公皇甫府君之碑(ずいちゅうこくさこうろくだいふこうぎめいこうほほふふくんのひ)」で、隋朝の忠臣であった皇甫誕 (こうほたん)の功績を称えるため、彼の子である皇甫無逸(こうほむいつ)によって唐代に建立されました。 この碑の書風は、同じく欧陽詢の代表作である「九成宮醴泉銘碑(きゅうせいきゅうれいせんめいひ)」と並び称されます。しかし、「九成宮醴泉銘碑」が端正で柔和な筆致を持つのに対し、「皇甫誕碑」は鋭利で峻厳な筆勢が特徴とされ、より緊張感のある書風となっています。これは、欧陽詢の晩年の作と推測されており、彼の書風がより完成された境地に達していたことを示しています。 この皇甫誕碑を通して、欧陽詢の書の深みと、隋から唐へと続く歴史の流れを感じ取ることができます。

大門碑林公園 [15] 顔氏家廟碑 唐 (780年)

顔氏家廟碑 (がんしけびょうひ)は、唐代中期の著名な書家である顔真卿(がんしんけい、709年~785年)の晩年に制作された楷書の名碑です。正式には「顔惟貞家廟碑(がんいていかびょうひ)」とも呼ばれ、顔真卿の父である顔惟貞(がんいじん、669年~712年)の廟に建立された碑です。この碑は、顔氏一族の功績を記録しており、碑文は4面に渡って顔家の歴史を伝えています。顔真卿の書風は、篆書の法を取り入れたことで知られ、楷書においてもその影響を感じることができます。特に、この碑における筆勢は非常に重厚でありながら、同時に荘厳さと気品を兼ね備えた印象を与えます。このような書風は、顔真卿が書家として円熟期を迎えた時期に生み出されたものであり、その力強さは彼の書道の集大成とも言えるでしょう。顔真卿は唐代書道の大成者とされ、その影響は後の書家たちにも多大な影響を与えました。大門碑林公園では、顔氏家廟碑を通じて、顔真卿の書道に対する深い理解と、彼の書の美を実感することができます。

大門碑林公園

大門碑林公園では、西暦100年代から700年代にかけての貴重な碑が並んでおり、歴史的に重要な書道作品を楽しむことができます。これらの碑には、古代から中世にかけての書法や文化の変遷が反映されており、時代ごとの特徴を感じ取ることができます。年代が新しくなるにつれて、使用される漢字は現代に近づき、形状や構造が読みやすくなります。初期の碑では、漢字が比較的複雑で形も多様ですが、時代が進むにつれてその簡素化が進み、現代の漢字に近い形になっていきます。特に、唐代の書法では、楷書が発展し、漢字の形が整ってきたことで、より読みやすくなり、書道の美しさも一層引き立っています。

大門碑林公園

大門碑林公園は、碑を鑑賞しながら時代の移り変わりを追うことで、書道の歴史や漢字の進化を感じることができ、興味深い体験をすることのできる公園です。

機会があれば、再度来てみたいですね。

それでは、また。

地域の歴史や戦時中の生活を深く知る 富士川町民俗資料館

富士川町民俗資料館は、山梨県南巨摩郡富士川町最勝寺にある資料館です。

富士川町民俗資料館

富士川町民俗資料館は、1876年に舂米(つきよね)村に建てられた𣇃米(つきよね)学校の校舎を活用した施設です。明治時代の西洋風建築「藤村式建築」を採用しており、六角形の太鼓堂やバルコニーを備えたモダンなデザインが特徴です。現在は、山梨県指定文化財となっており、地域の歴史や文化を伝える展示が行われています。

富士川町民俗資料館

白を基調とした少し水色がかった外観は、上品で迎賓館を思わせる佇まいです。華やかな装飾の窓やバルコニーは、訪れる人々に独特の雰囲気を感じさせます。建物の設計や細部に宿る明治の工夫を楽しむことができます。

富士川町民俗資料館

富士川町民俗資料館は、富士川町立増穂小学校の敷地内に位置しています。見学の際は、事前に開館時間を確認することをお勧めします。学校の敷地内ということもあり、周囲は静かで落ち着いた雰囲気です。

富士川町民俗資料館

館内に入ると、𣇃米学校の歴史を振り返る年表が掲示されています。横に長く続く年表には、学校の長い歴史が丁寧にまとめられており、時代の移り変わりを一目で感じることができます。

富士川町民俗資料館

一つ目の部屋には「𣇃米学校の跡」と書かれた展示室があります。この展示室では、𣇃米学校に関する資料が集められており、校舎や学生たちの写真、当時の学校生活を感じさせる品々が展示されています。展示を通じて、学校の歴史や当時の地域の様子を知ることができます。

富士川町民俗資料館

壁には、当時の集合写真がずらりと並べられ、歴史の重みを感じさせる使い古された日本の国旗も展示されています。また、ショーケースには明治時代の教科書が丁寧に陳列されています。

富士川町民俗資料館

ショーケースには、当時使用されていた教科書が展示されています。「新しい数学」といったタイトルの教科書が並び、いつの時代も「新しい」と書かれているところに、教育の進化を感じさせられます。

富士川町民俗資料館

カタカナを多用した国語の教科書には、当時の言語表現や教育方針が反映されています。さらに、戦時中の兵隊が描かれたイラストからは、その時代特有の歴史的背景を垣間見ることができます。

富士川町民俗資料館

別の展示コーナーでは、山梨交通電車線に関する資料が並べられています。この電車線は、甲府市から旧増穂町を結ぶ重要な交通手段でしたが、最終的には1962年に廃止されました。戦後の経済成長や台風被害などが影響し、廃線に至るまでのストーリーが当時の写真とともに紹介されています。

富士川町民俗資料館

展示されている白黒の写真を見ると、懐かしいと思う人もいるかもしれません。過去の風景や生活が鮮明に感じられ、当時を知っている人々にとっては、感慨深い瞬間となるに違いありません。

富士川町民俗資料館

資料館内の右側には、教室を再現した展示があります。寺子屋の雰囲気を持つこの空間では、150年もの歴史を感じることができます。机や椅子は当時のものを使用し、まるで明治時代にタイムスリップしたかのようです。

富士川町民俗資料館

富士川町民俗資料館は二階建てで、奥には木製の階段があります。この階段はところどころに傷みが見られ、木材は濃い色合いで、長い年月を経た風格を漂わせています。

富士川町民俗資料館

歴史を感じさせる佇まいの階段は、歩くと少し軋む音がし、それがまた風情を引き立てます。

富士川町民俗資料館

階段を上ると、2階にはさらなる展示室が広がり、訪れる人々を新たな歴史の物語へと誘います。

富士川町民俗資料館

2階の展示室では、戦時中の生活に焦点を当てています。展示されているアイテムには、軍服や草履、必勝のはちまきなどがあり、当時の人々の生活や精神文化を感じることができます。これらの物品は、戦争の影響を色濃く受けた時代背景を物語っており、観る者に強い印象を与えます。

富士川町民俗資料館

展示室には、当時の子どもたちが遊んだ「めんこ」や「こま」、「げた」などの生活用品が並んでおり、その一つ一つから、戦時中の子どもたちがどのように過ごしていたのかを垣間見ることができます。これらの遊び道具は、限られた物資の中で工夫し、楽しみを見つけていた子どもたちの姿を思い浮かべさせます。

富士川町民俗資料館

通知表の展示では、長い年月が経ったため、紙の色が茶色に変色しているのが印象的です。この変色は、時の流れを感じさせるだけでなく、当時の教育環境や学びの形を物語っているようです。手書きで記された成績やコメントからは、教師と生徒の関係や、どのようなことが重要視されていたのかがうかがえます。

富士川町民俗資料館

「舂米」という珍しい地名は、全国でもこの富士川町と鳥取県若桜町にしかないそうです。この地名は、稲をつくる際に使う「舂(つく)」という動作に由来しているとされ、農業や食文化と深い関わりがあります。富士川町と若桜町は、どちらも歴史と伝統を大切にした地域として知られ、地域の文化や風習が今も息づいています。

富士川町民俗資料館

富士川町民俗資料館は、地域の歴史を感じるだけでなく、過去の人々の生活や価値観に触れることができます。歴史に興味のある方には、特にオススメのスポットです。

機会があれば、再度来てみたいですね。

それでは、また。

自然とアートが調和する空間 大門碑林公園 憩いの広場

大門碑林公園 憩いの広場は、山梨県西八代郡市川三郷町市川大門にある広場です。

大門碑林公園 憩いの広場

大門碑林公園の碑林エリアの北側には、「憩いの広場」と呼ばれる開放的なエリアが広がっています。この広場は、訪れる人々がゆったりと過ごすことができる場所で、公園内でも特に静かで落ち着いた雰囲気が特徴的です。

大門碑林公園 憩いの広場

広場には趣のある池があり、その周りには灯籠や柳の木、そして岩が自然に配置されています。日本の伝統的な風景を再現したようなこのエリアは、四季折々の自然を楽しむことができる空間です。

大門碑林公園 憩いの広場

池のほとりには、石で作られたベンチが設置されています。ここでは季節ごとに異なる風景を眺めながら、そよ風を感じてリラックスすることができます。訪れる時間帯によって、自然の光と影が作り出す雰囲気が異なり、何度でも楽しむことができます。

大門碑林公園 憩いの広場

池に沿って歩いていくと、きのこのような形をしたユニークなオブジェが点在しています。日中に見ると、その役割が明確ではありませんが、夜間にはライトアップされるライティング装置である可能性が高いです。

大門碑林公園 憩いの広場

広場内には、様々な石の彫刻が配置されています。その中でも特に目を引くのが、牛をかたどったオブジェです。静かにたたずむその姿は、広場全体の穏やかな雰囲気に溶け込んでいます。

大門碑林公園 憩いの広場

広場を歩き回ると、どこか親しみやすい姿をしたたぬきのオブジェも目に入ります。その表情やポーズが愛らしく、思わず足を止めてしまうかもしれません。

大門碑林公園 憩いの広場

もうひとつユニークなのが、縦に並んだ「見猿、聞か猿、言わ猿」をモチーフにした彫刻です。古くからのことわざを表現したこのオブジェは、どこか考えさせられるものがあります。

大門碑林公園 憩いの広場

憩いの広場では、散策しながら様々な彫刻やオブジェを楽しむことができます。どの作品も独自の個性を持っており、一つひとつじっくり眺めることで、その魅力を感じることができます。

機会があれば、再度来てみたいですね。

それでは、また。