歴史と書の息づく空間 大門碑林公園 (前編)

大門碑林公園は、山梨県西八代郡市川三郷町市川大門にある公園です。

大門碑林公園

大門碑林公園は、市川三郷町は、和紙生産が盛んな町であり、書道用紙の生産でも知られています。この地域の特色を反映するように、町内にある大門碑林公園では、中国陝西省の西安碑林や山東省の曲阜碑林から名碑を集め、その歴史的な魅力を紹介しています。これらの碑は、特に書道や拓本の愛好家にとって非常に貴重なものです。

大門碑林公園

大門碑林公園に到着すると、その瞬間からまるで中国の伝統的な世界に足を踏み入れたかのような特別な雰囲気を感じることができます。入り口からは、典雅な中国風の建築様式や装飾が目に飛び込み、歴史の深さと文化の重みが感じられる空間が広がります。

大門碑林公園

赤い絨毯のように敷かれた道を進むと、正面には威厳を感じさせる中国の伝統的な建築様式の建物が見えてきます。この瞬間から、中国の文化や歴史に触れる準備が整った気分になります。

大門碑林公園

左手には四神獣の石像が置かれています。それぞれの神像は、壮大な表情と神秘的なオーラを放っており、見る者を圧倒します。四神は古代中国で方角を守る重要な神獣として信じられていました。

大門碑林公園

青龍は東を守り、白虎は西を、朱雀は南を、そして玄武は北を守護しています。それぞれがその方位に関連する自然や季節、または星座と結びついていて、神話や風水、占星術においても重要な役割を果たしてきました。

大門碑林公園

まず最初に目にするのが大門碑林公園の由来を記した碑です。この碑は、公園の起源や目的を記録したものです。

大門碑林公園

大門碑林公園の縁起を記したこの碑には、当時の市川大門町長の名前が大きく刻まれており、公園の設立に関わる人物としてその功績が記されています。碑文には、公園がどのようにして創設され、どのような意図で名碑が集められたのかが詳細に刻まれています。

大門碑林公園

公園の入り口には、まるで中華街にあるような建物があります。実は、これは拓本を採るための東屋で、拓本を体験できる場所です。希望すれば、有料で実際に拓本を取る体験ができます。

大門碑林公園

拓本体験は、書道愛好家にとって大変貴重な機会です。実際に碑文を拓本として採取することができ、その過程で中国の歴史をより深く感じることができます。多くの書道家がこの場所を訪れる理由は、この拓本体験にあります。

大門碑林公園

大門碑林公園は、書道愛好家にとって特別な場所です。特に拓本を目的に訪れる書道家が多く、碑文から歴史を学ぶとともに、自らの書道技術を向上させるための場となっています。

大門碑林公園

右側に目を向けると、3つの中国の伝統的な建築様式の建物が立ち並んでいます。その建物の1つ1つの中には、歴史的な碑が展示されています。

大門碑林公園

右から [1] 西嶽華山廟碑 [2] 曹全碑 [3] 張遷碑です。3つの重要な碑は、全て中国の歴史を代表するもので、その碑を通して古代中国の書法や文化を学ぶことができます。

大門碑林公園 [1] 西嶽華山廟碑 後漢(165年)

西嶽華山廟碑(せいがくかざんびょうひ)は、後漢時代に制作された碑で、隷書の代表作の一つです。この碑は、隷書の特徴である太く均整のとれた線と抑揚の大きな筆遣いが印象的で、書道史において極めて重要な位置を占めています。

大門碑林公園 [1] 西嶽華山廟碑 後漢(165年)

この碑文は、当時廃れていた西嶽華山廟を、郡守である袁逢(えんほう)が復興したことを記念して建てられました。碑には、その復興の経緯や意義が詳細に刻まれており、後世の研究においても貴重な資料とされています。原碑は明時代の地震により失われてしまいましたが、幸いにも当時採取された拓本が残されており、その拓本を基にして現代に復元されています。

大門碑林公園 [2] 曹全碑 後漢(185年)

曹全碑(そうぜんひ)は、後漢時代の官吏・曹全の功績を讃えるために制作されました。この碑は、隷書の中でも特に優れた作品とされ、文字の美しさや独特の書風が際立っています。

大門碑林公園 [2] 曹全碑 後漢(185年)

碑文には、曹全の人物像や業績が詳細に記されており、当時の政治や社会情勢を知る上でも重要な資料とされています。碑額がないという特徴を持ちながらも、その隷書の文字は女性的な柔らかさと上品さを感じさせ、歴史的にも美術的にも高く評価されています。

大門碑林公園 [3] 張遷碑 後漢(186年)

張遷碑(ちょうせんひ)は、張遷碑は、後漢時代の官吏・張遷の業績を記したもので、その文字は角ばった点画が特徴的です。この碑は隷書の作品として知られ、特にその文字の特徴的なスタイルが注目されています。

大門碑林公園 [3] 張遷碑 後漢(186年)

この碑は「曹全碑」とほぼ同時期に制作されました。刻まれた文字は、ほぼ正方形の字形を持ち、点画は角ばった力強い筆致で表現されています。そのため、同時期に作られた「曹全碑」の柔らかさとは対照的で、男性的で重厚な印象を与えます。こうした書風の違いは、隷書の多様性を理解する上で非常に興味深いものです。

大門碑林公園

大門碑林公園の各碑の前には、音声による説明を行う機械が設置されています。訪問者は、ボタンを押すことで、日本語・英語・中国語の3言語で碑の説明を聞くことができます。このシステムにより、言語の違いに関係なく、より多くの人々が碑に込められた歴史や意味を理解しやすくなっています。

大門碑林公園 拓本コーナー

大門碑林公園には、書から拓本を採ることができる特別なコーナーがあります。拓本コーナーは、書道愛好家や書の研究者にとって非常に魅力的な場所となっています。

大門碑林公園 拓本コーナー

壁面には、拓本を採るための碑がはめ込まれており、実際に自分の手でその文字を拓き、歴史と文化を肌で感じることができます。拓本の作業は、ただ文字を写すだけでなく、書道の奥深さを体験できる素晴らしい方法です。興味がある方にとって、ここはまさに「書の世界」を深く学ぶ場所となります。

大門碑林公園 [4] 九成宮醴泉銘碑 唐(632年)

さらに歩みを進めると、九成宮醴泉銘碑(きゅうせいきゅうれいせんめいひ)があります。九成宮醴泉銘碑は、中国唐代の文化と歴史を象徴する重要な碑です。唐の太宗(598年〜649年)は、隋の時代に建てられた宮殿を修復し、「九成宮」と命名しました。その際、地面から清らかな泉が湧き出たとされ、その出来事を記念して建てられたのが九成宮醴泉銘です。楷書の名手、欧陽詢(おうようじゅん、557〜641年)が刻んだこの碑文は、楷書の代表作として知られています。中国書道の中でも最高峰と評価されるその書風は、線の緊張感や均整のとれた美しさが特徴です。この書風は、日本にも伝わり、小中学校の教科書の手本に取り入れられるなど、古来より楷書を学ぶ最高の模範として広く親しまれています。

大門碑林公園

碑林を鑑賞しながらゆっくりと進んでいくと、道は次第に緩やかな坂道になり、高台へと続いていきます。このあたりまで来ると、視界が広がり、公園全体を見渡すことができるようになります。

大門碑林公園 [7] 高貞碑 北魏(523年)

高貞碑(こうていひ)は、は、北魏時代(523年)に制作された名碑であり、北魏体の代表作の一つとされています。この碑は、北魏に仕えた高貞(489年~514年)の功績を記念して建立されました。碑文には、高貞の生涯や業績が詳細に記されており、北魏時代の社会や政治情勢を知る上で非常に重要な資料です。特に注目されるのは、文字が持つ独特の書風です。北魏体は、縦画が力強く長いのに対して、横画が短く整然としており、重厚感と繊細さが同居する美しさを持っています。この書風は、後世の書道にも大きな影響を与えました。

大門碑林公園

この場所まで来ると、視界が一気に広がり、公園の外に広がる街全体を見渡すことができるようになります。高台からの眺めは格別で、眼下には公園を囲む街並みや遠くの山々が広がっています。季節や時間帯によって景色の表情も変わり、朝の澄んだ空気の中で輝く景色や、夕暮れ時のやわらかな光に包まれた風景など、訪れるたびに異なる感動を味わうことができます。

大門碑林公園 [5] 礼器碑 後漢 (156年)

礼器碑(れいきひ)は、後漢時代(156年)に制作された隷書体の碑で、「漢隷第一」と称される隷書の最高傑作の一つです。この碑は「魯相韓勅造孔廟礼器碑(ろしょうかんちょくぞうこうびょうれいきひ)」または「孔廟礼器碑(こうびょうれいきひ)」とも呼ばれています。碑文は、当時の魯の大臣であった韓勅(かんちょく)が、孔子を祀る孔廟や祭祀に用いる器物の修復を行った業績を記したものです。碑額が無いという独特の構造を持つ一方で、裏面や両側面には多くの人名が刻まれており、当時の社会や文化的背景を知る貴重な情報源となっています。この碑の隷書体は、線の太さや字形のバランスが非常に美しく、書道史においても特に高い評価を受けています。そのため、礼器碑は書道を学ぶ上での理想的な模範とされ、古くから多くの書家たちに影響を与えてきました。

大門碑林公園

大門碑林公園の上の方には、さらに多くの碑が並んでいるエリアがあるので、今から行ってみたいと思います。

それでは、また。

歴史と書の息づく空間 大門碑林公園 (後編)

大門碑林公園は、山梨県西八代郡市川三郷町市川大門にある公園です。

大門碑林公園

大門碑林公園は、市川三郷町は、和紙生産が盛んな町であり、書道用紙の生産でも知られています。この地域の特色を反映するように、町内にある大門碑林公園では、中国陝西省の西安碑林や山東省の曲阜碑林から名碑を集め、その歴史的な魅力を紹介しています。これらの碑は、特に書道や拓本の愛好家にとって非常に貴重なものです。

大門碑林公園

大門碑林公園の奥へ進むと、階段がさらに続きます。階段を登り終えると、さらに多くの碑が並ぶエリアがあります。

大門碑林公園

このエリアでは、周囲の自然とともに、碑の数々が調和し、静かな空間の中で歴史を感じることができます。

大門碑林公園

大門碑林公園の上の方まで登ると、ここには8つの碑が並んでいます。高台からは公園全体を見渡せる素晴らしい景色が広がり、さらに碑を鑑賞しながらその歴史的価値を深く感じることができます。

大門碑林公園 [8] 玄秘塔碑 (841年) [9] 大唐宗聖観記碑 (626年)

右から、[8] 玄秘塔碑 [9] 大唐宗聖観記碑と並びます。

玄秘塔碑(げんぴとうひ)は、唐代(841年)に建立された碑で、唐の名書家・柳公権(りょうこうけん、778年~865年)の代表作として知られています。「大達法師玄秘塔碑 (だいだつほうしげんぴとうひ)」とも呼ばれ、大達法師・端甫(770年~836年)の功績を称え、その埋骨塔の由来を記したものです。柳公権は、同じく唐代の大書家・顔真卿(がんしけい、709年~785年)と並び称され、「顔柳二家」として後世に大きな影響を与えました。顔真卿の書法を受け継ぎつつも、彼の「顔法」とは異なり、より細く骨ばった力強い書風を確立しました。そのため、柳公権の書は古来より書学の入門用として広く学ばれてきました。玄秘塔碑は、そんな柳公権の楷書の特徴がよく表れた作品であり、中国書道史において極めて重要な存在です。筆の抑揚や線の強弱が絶妙に調和し、端正でありながらも力強さを感じさせるその書風は、書を学ぶ者にとっての理想的な手本とされてきました。

大唐宗聖観記碑 (だいとうそうせいかんきひ)は、唐の貞観年間 (626年)に建立された碑で、唐代を代表する書家・欧陽詢(おうようじゅん、557年~641年)による書です。彼の楷書作品の中でも特に独特な特徴を持ち、楷書と隷書が混在した珍しい書風となっています。欧陽詢の楷書は、端正で引き締まった線質が特徴であり、後世の書家に多大な影響を与えました。しかし、この碑では一般的な楷書とは異なり、隷書の要素が加わることで、柔らかさと力強さが同居した独自の美しさを生み出しています。日本との関わりも深く、「朝日新聞」の題字は、この碑の文字を集めて作られたと言われています。このことからも、大唐宗聖観記碑が書道史において特別な位置を占めることが分かります。

大門碑林公園 [10] 孔子廟堂碑 唐 (626年)

孔子廟堂碑 (こうしびょうどうひ)は、唐の楷書の代表作の一つであり、初唐の名書家・虞世南(ぐせいなん、558年~638年) の筆によるものです。彼は、欧陽詢 (おうようじゅん)、褚遂良(ちょすいりょう)とともに「初唐の三大家」に数えられる名書家で、その端正かつ洗練された筆致は、後世の書道に大きな影響を与えました。この碑は、唐の太宗 (598年~649年) が長安にある孔子廟の改築を記念して建立したものです。孔子の教えを称え、儒学の重要性を強調する内容が刻まれており、政治と儒学が深く結びついていた唐代の文化を反映しています。しかし、原碑は唐末期に失われてしまい、その後、二カ所で碑が再建されました。そのため、現存する碑は後世の復元ですが、虞世南の洗練された書風を今に伝える貴重な資料となっています。

大門碑林公園 [11] 雁塔聖教序碑 [13] 集王聖教序碑 [12] 雁塔聖教記碑

右から、[11] 雁塔聖教序碑 [13] 集王聖教序碑 [12] 雁塔聖教記碑と並びます。

中央にそびえる三基の碑は、玄奘三蔵 (602年~664年) の功績を称えたものです。玄奘は、唐代の高僧であり、インドへ渡って仏典を収集・翻訳し、仏教の発展に大きく貢献しました。その偉業を後世に伝えるために、これらの碑が建てられました。左右に配置された碑は、それぞれ「序記(じょき)」「教記(きょうき)」と呼ばれ、内容的に対をなしています。「序記」は玄奘の生涯や西域への旅路を記し、「教記」は彼が持ち帰った経典の意義や仏教界への影響について述べています。

大門碑林公園 [11] 雁塔聖教序碑 唐 (653年)

雁塔聖教序碑 (がんとうしょうぎょうじょひ)は、唐代の名書家・褚遂良(ちょすいりょう、596年~658年)の筆による楷書の名碑です。彼は欧陽詢(おうようじゅん)、虞世南(ぐせいなん)と並び「初唐の三大家」に数えられ、その端正かつ優雅な筆致は、後世の書道に多大な影響を与えました。この碑は、唐の高宗(628年~683年)の勅命により建立されました。内容は、三蔵法師として知られる玄奘(げんじょう、602年~664年)がインドから持ち帰った仏典の翻訳事業を記念するもので、仏教の発展に貢献した玄奘の偉業を称えています。「序」は、太宗の勅命によって僧・彦悰(げんそう)が執筆し、碑文の書は褚遂良が担当しました。碑は西安の大雁塔に設置されており、「雁塔」の名の由来ともなっています。碑文は楷書の完成形に近く、洗練された筆遣いと堂々たる構成が特徴的です。特に、褚遂良の筆致は王羲之の流麗な書風を受け継ぎながらも、独自の厳格な品格を備えており、後世の楷書の手本とされました。

大門碑林公園 [12] 雁塔聖教記碑 唐 (653年)

雁塔聖教記碑 (がんとうしょうぎょうきひ)は、唐代の高僧・玄奘(げんじょう、602年~664年)の偉業を称えるために建立された碑です。雁塔聖教序碑 (がんとうしょうぎょうじょひ)と対をなす存在であり、西安の大雁塔に設置されています。この碑は、玄奘がインドから持ち帰った仏典の翻訳事業を記録したもので、仏教の教えを広める目的で建立されました。碑文は、唐の高宗(628年~683年)の勅命により作成され、当時の仏教界や皇帝の保護のもと、玄奘の翻訳事業がいかに重要なものであったかを記しています。碑の書は、褚遂良(ちょすいりょう、596年~658年)の筆によるものとされています。褚遂良は初唐の三大家の一人であり、彼の書は端正かつ洗練され、楷書の完成形に近いものとして後世に多大な影響を与えました。雁塔聖教記碑の文字は、流麗でありながらも品格があり、厳格な造形美を持つ楷書として評価されています。

大門碑林公園 [13] 集王聖教序碑 唐 (672年)

集王聖教序碑 (しゅうおうしょうぎょうじょひ)は、唐代の高僧・玄奘(げんじょう、602年~664年)がインドから持ち帰った経典の翻訳事業を記念し、仏教の教えを広めるために建立された碑です。その名の通り、中国書道史上最も著名な書家・王羲之(おうぎし、303年~361年)の書を集めて作られたことで知られています。この碑の文章は、唐の太宗(598年~649年)の勅命により、僧・彦悰 (げんそう)が執筆しました。その碑文を刻む際、王羲之の書を集めて構成するという手法が取られ、当時現存していた王羲之の筆跡を用いて、一つの碑文として仕上げられました。そのため、「集王」という名が冠されています。碑は、現在も西安の大雁塔に現存し、王羲之の流麗な書風を今に伝えています。碑文は楷書を基調としながらも、行書や草書の要素を含み、独特の韻律と美しさを備えています。王羲之の書を直接見ることができない現代においても、この碑を通じて彼の筆致を学ぶことができる貴重な存在です。

大門碑林公園 [14] 皇甫誕碑 唐 (641年)

皇甫誕碑 (こうほたんひ)は、唐代の書家・欧陽詢 (おうようじゅん、557年~641年) の楷書による碑であり、初唐楷書の第一の手本とされてきました。原碑は現在も西安碑林に現存していますが、長年の風化や損傷により、割れた状態となっています。 正式名称は「隋柱国左光録大夫宏議明公皇甫府君之碑(ずいちゅうこくさこうろくだいふこうぎめいこうほほふふくんのひ)」で、隋朝の忠臣であった皇甫誕 (こうほたん)の功績を称えるため、彼の子である皇甫無逸(こうほむいつ)によって唐代に建立されました。 この碑の書風は、同じく欧陽詢の代表作である「九成宮醴泉銘碑(きゅうせいきゅうれいせんめいひ)」と並び称されます。しかし、「九成宮醴泉銘碑」が端正で柔和な筆致を持つのに対し、「皇甫誕碑」は鋭利で峻厳な筆勢が特徴とされ、より緊張感のある書風となっています。これは、欧陽詢の晩年の作と推測されており、彼の書風がより完成された境地に達していたことを示しています。 この皇甫誕碑を通して、欧陽詢の書の深みと、隋から唐へと続く歴史の流れを感じ取ることができます。

大門碑林公園 [15] 顔氏家廟碑 唐 (780年)

顔氏家廟碑 (がんしけびょうひ)は、唐代中期の著名な書家である顔真卿(がんしんけい、709年~785年)の晩年に制作された楷書の名碑です。正式には「顔惟貞家廟碑(がんいていかびょうひ)」とも呼ばれ、顔真卿の父である顔惟貞(がんいじん、669年~712年)の廟に建立された碑です。この碑は、顔氏一族の功績を記録しており、碑文は4面に渡って顔家の歴史を伝えています。顔真卿の書風は、篆書の法を取り入れたことで知られ、楷書においてもその影響を感じることができます。特に、この碑における筆勢は非常に重厚でありながら、同時に荘厳さと気品を兼ね備えた印象を与えます。このような書風は、顔真卿が書家として円熟期を迎えた時期に生み出されたものであり、その力強さは彼の書道の集大成とも言えるでしょう。顔真卿は唐代書道の大成者とされ、その影響は後の書家たちにも多大な影響を与えました。大門碑林公園では、顔氏家廟碑を通じて、顔真卿の書道に対する深い理解と、彼の書の美を実感することができます。

大門碑林公園

大門碑林公園では、西暦100年代から700年代にかけての貴重な碑が並んでおり、歴史的に重要な書道作品を楽しむことができます。これらの碑には、古代から中世にかけての書法や文化の変遷が反映されており、時代ごとの特徴を感じ取ることができます。年代が新しくなるにつれて、使用される漢字は現代に近づき、形状や構造が読みやすくなります。初期の碑では、漢字が比較的複雑で形も多様ですが、時代が進むにつれてその簡素化が進み、現代の漢字に近い形になっていきます。特に、唐代の書法では、楷書が発展し、漢字の形が整ってきたことで、より読みやすくなり、書道の美しさも一層引き立っています。

大門碑林公園

大門碑林公園は、碑を鑑賞しながら時代の移り変わりを追うことで、書道の歴史や漢字の進化を感じることができ、興味深い体験をすることのできる公園です。

機会があれば、再度来てみたいですね。

それでは、また。

季節ごとに異なる景色 西湖 石碑

西湖 石碑は、山梨県南都留郡富士河口湖町西湖にある石碑です。

西湖 石碑

西湖は、山梨県に広がる富士五湖の一つです。訪れるたびに新たな発見がある静かな湖です。この湖畔からは、雄大な富士山を望むことができ、季節ごとに異なる景色を楽しむことができます。

西湖 石碑

西湖の石碑は、西湖の北西にある西湖根場浜にあります。石碑は、西湖と富士山の風景を背にしながら、時代を超えて地域の歴史を語り継いでいるように佇んでいます。

西湖 石碑

冬のある日、この場所を訪れました。石碑の周囲には、美しい花々が植えられているようですが、季節が冬ということもあり、色鮮やかな景色は見ることができませんでした。それでも、周囲の静寂と澄んだ空気が心を落ち着かせてくれます。

西湖 石碑

春にはきっと、周囲の花々が鮮やかに咲き誇り、この石碑の景色もまた違った趣にななります。次に訪れるときには、四季折々の花々に囲まれた石碑と、異なる表情を見せる富士山を楽しみにしたいと思います。冬の訪問は、また違う季節の西湖を夢見るきっかけをくれました。

機会があれば、再度来てみたいですね。

それでは、また。